認められるというもので

わたしが自分のブログに何度も同じことを書くのは、自覚している。
既に購入済みのものが家にあるのに、自覚せずに、何個も同じ歯磨き粉を買って来るというパターンとは、似て非なるもの。
だから何?
内情は違っても、外から見える見かけは、同じ。
現象は同じ。

例えば、、、ギャンブル依存症だから、病気だから、ギャンブルが人に被害を与えたり、常識をはるか超える非合法範囲であっても、認められるというものではない。

自分のブログに何度も同じことを書いても、飽き飽きヘキヘキする人は、読みに来なくなるだけであり、わたしはブログの広告収入をあてにしているわけでもなんでもないので(第一、広告は設定していないし)
たんにアクセス数が減るだけである。

自分の蒔いた種、自業自得。確信犯。
ではあるものの、ウケを狙ってスベるよりは、苦痛が少ない。
ウケを狙わないでスベることを承知の上でスベっているのだから。

と、開き直り、相変わらずマイペース。
可愛げがない。

ちなみに。
ある趣味サイトの60代の女性が日記をあげている。
60代と70代の、合計3人で、スポーツジムの後、食事に行く話。
待ち合わせ時間、場所にうまく3人が揃わないという話を延々と経緯を書いておられる。
(延々という点では、わたしも人のことは言えないが)
LINEでお互い約束、待ち合わせしていたところ、途中に時間が微妙に変更になって、LINEで知らせても既読にならなかったり、携帯電話をロッカーに入れていたり。
なんやらかんやらで、無駄な労力、待ち時間を過ごしたことを書いておられる。
思わずわたしは、よせばいいのに、その日記にコメントを付けた。

「スゴイです、わたしならとても出来ません。
自分の時間が減るので」

わたしは、嫌な奴だろう。
一人単独行動をボッチだと思わない。
ジム仲間と雑談をするために、わざわざ労力と時間を割いて苦労する気になれない。
本当に人それぞれだろうけれど。
人の好みはマチマチ、千差万別。
どの行動も正解であり、間違いなどはない。