はなんだか肩身が狭

今日は、移動時間が長いから、買ったばかりのタブレット用充電器を携帯している。
エッセイブログを3つ読んだところ。
電車内の皆様は、マスクマンが多いので、我が身を振り返り、ちょっと気まずい。
家を出る時にマスクを忘れないように、とアタマをかすめていたのに、しっかり忘れている。
念じ方が足りなかったようだ直資中學
マスクを携帯していて、マスクをする、しない、の選択肢があればいいが、マスクをしてない、できないのはなんだか肩身が狭い。

隣に座った母子は、母がヘビーに話しかけている。
あの年齢では話しても、一方通行だと思うが、ベビーは自分は話さなくても先に耳から言葉を覚えるらしい。

ただ、延々と話しているママは、なんか独り言、つぶやきみたいで、ちょっとなあ、、、
なぜなら、ベビーに言いたいことを伝えるのではなく、自分が思ったことや感じたこと、アタマに浮かぶことをペラペラ話している。
一人なら、アブナイ人だが、たまたまベビーを連れているから、どうにか独り言の変な人オーラは、感じさせないけれど、、、
やっぱり変な人のように思えてしまう。
わたしも、あんな感じかも知れない。

そのママ、心の声をいちいち発声するものだから、ついつい、「ちゃうちゃう(大阪弁)」とツッコミを入れたくなってしまう孔聖堂中學banding
まだ新米ママのようで、ベビーの行動に対するリアクションや、話していることが、「そうじゃないと思うけど、、、」と違和感たっぷり。

わたしも、席、真隣でスマホ入力に余念がない、可愛げのないオバさん。
孫がいるお年頃なら、ベビーをあやしたりするものなんだけど、知らん顔。
わたしは独り言タイプの人は、めんどくさいので近寄らないことにしている。
なのでベビーにも近寄らない。

いちいち、わたしのツッコミ本能が、ぴこぴこ出て出て、引っ込ませるのに疲れる。
神経に刺さるのでuche傳銷

秀明監督を特集

さて、自分の幸せを犠牲にして他人を幸せにすることが自分の幸せの人が仮にいるとする。
宗教家か?
決して自分を犠牲にはしていないと推測する。
自分の特性を生かしている。
自分の幸せと人の幸せが一致するのが理想。
自分が不幸なら、他人よりも自分を幸せにするのが先。

それで思い出したが、
NHKテレビ番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、鰹節職人が、プロとは?という問いに、
「自分が満足出来るものを他の人に満足してもらえるのが、プロかな」と答えていた家居害蟲

ちなみに、昨夜、この番組の特別編で、シン・エヴァ劇場版の 庵野秀明監督を特集、放映していた。
この人、肉も魚も食べずにお菓子ばかりボリボリ食べているけれど、60歳でもスタイルも悪くなく健全。
にこやかな可愛い顔をされていたが、取材にはこの番組最長の4年の長きにも及んだ。

モノづくりをする人は気難しい。
昔話「鶴の恩返し」の鶴のように、自分の羽をむしって作品を作る。
命を削って作品を生む。
命がなくなっても、満足いく作品が出来れば本望。命と引き換えに。
庵野監督の手法、、、ため息が出る。
自分を追い込んで追い込んで(まるで)血が出てのたうちまわる、そのプロセスは壮絶。
〆切の日が、最後の吐き出し終了口空氣清新機推薦
多大なプレッシャーの負荷がかかり、追い詰められて絞り出るものは内臓まで出てきそうな瀬戸際、崖っぷちに立たされる。

スケールや影響力は全く違うけれど、かつての仕事を彷彿させた。

監督が気に入らない部分は自分で作り直すにしても、そのたたき台を何度も何度も作らされるスタッフのストレスは想像に難くない。
しかも、具体的な指示なしで、「そうじゃない」とダメ出し。
どこがどうダメで、どういうのが良いのか、方向性すら定まっていないで。
じゃあ自分で作れ!とブチギレるだろうが、スタッフのエネルギーが続く限り作らせる。

この説明、いかにも浅く薄っぺらで軽い。
つくづく、自分の文章表現力は安っぽいと実感する。
語彙が乏しい、、、。ボキャ貧である。
(読み返してみて自分の熱量が全く伝わっていないと感じる)

あの制作現場のように、あの監督のように、あそこまでエゲツない事はないが、今でも夢に出てくる某プロデューサーがいた。
苦しいあの思い、、、シン・エヴァの制作者たちは、あんな程度の比ではないだろう。
番組を見ながら、わたしまで痛みが伝わり、追体験した。
感情移入というよりは、蘇る感覚みたいなものか。
苦しい現場。
クリエイターは無から何かを作るので、半端ないエネルギーを必要とする。
番組を見終えて、どっと疲れた。
わたしには絶対に務まらない。

が、一丸となり珠玉の作品を生み出すという、スタッフ全員の思いが、監督の指揮や士気によって高揚する。
一人ではなく全員で引き上がる香港新盤

ゴリーは同じであると

わたしは、安い100円の回転寿司でも、目の前で寿司職人が握ってくれカウンターで食べる高級お寿司も、味は多少違うが、お寿司というカテゴリーは同じであると感じる。
食に貪欲な人はどんな労力やお金や時間を使ってでも、美味を追求する。
わたしは、美味しい、不味いの味の「違い」はわかる。
喉元過ぎれば同じだが。
どれぐらいの価値を置くか、である。
ではあるが、わかるということは、幸せである。
わからない人もいるし、一生、わかることはない人もいる。
その人の歩んできた人生、歩む人生による。
選択肢があるか、ないかであるが、喉元過ぎたらおんなじやん!なんて言っているわたしは、味わいも風情もない。
美味を味わい共に楽しもうとする人々を白けさせるかも知れない牙周病 糖尿病
確かに良いものは良い。
味わい尽くすことに生きる悦びを感じるだろう。
その一方で、衣食住ではなく、命をかけた登山に人生の全てをかける人もいる。
命ほどではなくても、グランピングなど、半分自然を取り入れたキャンプも人気だ。
贅沢の感じ方が人や年代によって違う。

今ふと思うと、豪華ホテル贅沢三昧は、あんまりカッコよくないかも知れない。
時代遅れ感がある。
昔昔の大女優さんのように、すごい毛皮のコートをまとって、しゃなりしゃなりと歩くと、動物愛護団体から非難を受けるように、時代は移り変わる。
豪華、贅沢も時代と共に質が変わるように思う。
ごてごてコッテリよりも、心地よい透明感。
豪華な部屋でなくても、一粒のコーヒー豆を自分の手で栽培し焙煎し味わうのも、こだわり。
クラウドファウンディングで寄付して皆んなで企画立案、夢を具体化して立ち上げ作るのも良し。
ではあるものの、日常生活に忙殺されると、意識の高い目標より、手に取りやすい快適時間のほうが効き目があるように思う。
が、人それぞれ照CT

豪華ホテルステイのブログも、年に数回ならまだしも、毎月毎月これでもか、、、と、なかばムキになるかのようにインターネットにアップされると、ステイするのが楽しみなのか、アップするのが楽しみなのか、本末転倒のようにわたし個人としては思う。(決して非難でも否定でもありません)
そういう時期は誰にでもあることだろう。
自分を楽しませているのは、本当に贅沢なライフスタイルなのか、皆んなの目に触れる自分の生活なのか、、、
両方同時に楽しんでます、というのもアリだけれど。
日記を兼ねて、なんていうのもアリ。
読む人を不快にさせる、特定の他人に対する誹謗中傷やヘイトスピーチでなければなんでもアリだ。

皆んなの生活や考えを知ることによって、自分の刺激になり、自分が活性化されることなら、大いに好奇心を持ち触れると良いと思う。
ただし、わたしの場合は、あんまり行かない傾向にある。
今を楽しむのが精一杯で、人のことまで興味が追いつかない。
わたしは器が小さいのか、自然体エコ路線であるIVF試管嬰兒

けではないのに

蜘蛛が「自宅、兼、仕事場」を作っていた。
しかし、不法侵入。
我が家の敷地内に借地権もない蜘蛛に、賃貸を頼まれたわけでもないし、許可したわけではないのに、蜘蛛が無断で入ってくる。
しかも、勝手に巨大な蜘蛛の巣を作る。
で、蜘蛛の巣と格闘した。
広々とした空間にのびやかに作られた、なかなか大きな蜘蛛の巣。
獲物もゲットされていたxero

住む人がマメにチェックしないと、庭など、すぐに蜘蛛の巣が張る。
家の中も、掃除してもしても、また蜘蛛の巣。
蜘蛛との闘い。
なんと、よく働くこと。
わたしより頑張られると、わたしが蜘蛛の仕事の後から蜘蛛の巣を次から次へと潰すハメに陥り、まるで誰も住んでいない家のような気になって、気分が良くない。
蜘蛛の巣が張る家は、無人の荒廃した廃墟イメージだ。
お化け屋敷。
無人だと映れば、近所の悪ガキなどには遊び場として目をつけられそうだ。(が、最近の子はそういう遊びはしないかも)

ちなみに、蜘蛛は害虫を食べてくれるから、悪くはないと言われる。
そんなに直接、害もないのだが、蜘蛛そのものが気持ち悪いし、第一、イメージが悪すぎる會計軟件
庭の木にはもうひとつ隣の木に大きな蜘蛛の巣が張っている。
蜘蛛の巣屋敷か?

それはそうと、
ご近所に、ゴミ屋敷になりそうなちょっと要注意の家がある。
草木は生え放題、草ぼうぼう、敷地内も手入れは全くされず、インターホンは切られている。
ついには玄関前にまで、段ボール箱が家の中からはみ出し置かれるようになった。
60代?70代のご兄妹が住まわれているはずなのだが。

ご近所の荒れた家や草だらけの土地が、最近売られて二コイチ(2分割)で家が建つようになった。
新しい若い世代の家はエネルギーを感じる。
若い世代でなくても、新たに土地を購入して自分の家を建てようという人は、こだわりや、今までの軌跡を感じる。
荒れた家や土地より、新しい動きがあるほうが活力がある宣傳單製作
お馴染みさんであろうが、長い付き合いであろうが、皆さんの事情で、住民の出入りがある。
高齢と若い世代の入れ替わりが目の前で次々と行われている。
そして、家(一戸建て)を見ると外からでも経済状態や健康状態がまるわかりだ。
維持の仕方に、住む人の内情や近況が現れる。

をどうしたか具体的に

「ぜんぜんしていない」というのは、嘘ではない。
パーフェクトな人や素晴らしい人の努力の質に比べると、「ぜんぜん」である。
「まあまあ」「そこそこ」しているという答え方もあるが、結果が出る前に、そう言ってしまうと、
なんだかプレッシャーになる。
成功してからでは、さすがに「ぜんぜん」とは(嘘になるから)言えないので、
「たいして、してなかった」と、言いたい私處脫毛

与えたいとしたら、油断、与えたくないとしたら、敵対心とか、そういうものか。
相手がこっちに対して勝手に張り詰めてくる、緊張は、苦手だ。


話す相手を見て言う。
相手が、同じ目的を持ち、努力している人で、なにをどうしたか具体的に聞かれたら、
質問に対しては、少しは答えるかも知れない。
あまりがんがん言うと、イヤミになる。

事実を否定したり、捏造したりするのはどうかと思うが、
ありのままの事実を伝えても、どんな相手か、接する相手による。
イヤミと受け取られる相手に、わざわざ伝えない脫毛 邊間好
同じ土俵にいて、お互い、相手のことは良い意味で刺激を受けたり、参考にするけれど、
嫉妬したり(されたり)ライバル視したりする相手には、オブラートに包んで逃げるほうが得策である。

立場はまったく違っても、「自分を確立している人=自立している人」であれば、
さばさばと、爽快な関係が築ける。

他人と自分をいっしょくたにする人は、厄介である。
他人は他人。自分は自分。
他人がそうだからといって、自分もそうでなければならないことは、ない。


べたっとした、人に寄りかかる人は、重くて、面倒だ。
家族であっても、ある程度の節度は必要。
わたしは、家族は、「最悪の場合の砦」、ぐらいに考えている。
とは言いつつ、実際は、寄りかかっているんだとは思うけれど、お互い様だ。
家族以外の人も、そうなのかも知れない。

「人」という文字は、支えあって、成り立っているそうだ。
でも、支え方が人によって違うから、ややこしい755 脫毛

もお付き合いがあ

さて、この人物との関わりについて。
姑は昔、A駅エリアに住んでいたため、顧客だったこともあり、プライベートにもお付き合いがあったようだ。
姑は、高級品好みで、好みに合う商品が入ると店から連絡を受けて買いに行っていたらしい。
わたしも結婚直前に姑に連れられて、その店に行ったことがある。
こじんまりとしたお店には、舶来用品のみが売られていた兒童免疫力
が、とても値段は高かった。

わたしは洋服にそのような大金をかける趣味はないので、さ、さ、さーっと見渡して、はい、買いたい物、無し!というかんじ。

ちなみに、ご近所さんのママ友つながりの人が輸入洋服を時々、自宅で販売していた。
これもまあまあの金額だったが、薄めのサマーセーターの一枚や二枚はご近所の手前、買ったように思う。
買う人も買わない人もいるが、居住地で売買は、売り手も客も、同じご近所さんだと、冷蔵庫の中身が知られる感覚に近いものがある肝臟檢查
お互いのフトコロ事情がそれとなくわかるので、ブレない信念と距離感をもって接しないと、ミニトラブルの元になる。

まあそれは、よいとして。
潤沢な資金があり高価なものを普通の感覚で買うなら別に個人の自由だ。
潤沢ではない収入で高価なものを好きで買う人は、これまた個人の自由である。
人それぞれの道。
生活が破綻しなければ、好きにすればよい。
生活は破綻しないが、家族にしわ寄せが行く場合もあるだろうが、それも人の道。

と、延々と長々と、横道に逸れている。
その、高級輸入品ブティックの元経営者の女性が、スマホにどっぷり浸かっているわたしに、声をかけてきた人工受孕成功率

かも知れないけれ

案外、知っているようで、正確には知らなかったこともある。
性的マイノリティーの人たちが声を上げ始めたのは、そう昔ではない。
社会でも認識され、行政や企業も前向きに取り組んでいるようだ醫學美容

身近に、そういう人が実際にはいないので、(いたとしても、カミングアウトしてないだけかも知れないけれど)、実態に見知ったり、聞いたりしたことはない。
が、今、ブログ村エッセイ注目記事を読んで、知識や理解を深めはじめている。

知らないからといって、偏見は良くない。
まずは正しく知って理解すること。
わたしは、ストレート(異性愛者)なので、同性愛傾向はない。
だが、女性には、ボーイズ?ラブのコミックが人気がある。
わたしも、最近、綾野剛扮する、男性を好きになる男性を描いた映画「影裏」を観て、ガツンと来た。ドキリ。
性別にとらわれず、恋をしてしまいそう、、、
それ以来、ボーイズラブものにハマるとまではいかないが、同性愛に対する拒絶反応や否定感は、すーっと消えた。毛嫌いはしない。
実際に自分もその傾向に走るかというと、わたしは全くその気はない。
わたしは男性ではないので、ボーイズラブの実践は無理。
一旦男性に性転換してから男性を相手にする、、、としたら、ちょっと面倒創新投資
更に、一旦男性に性転換した元女性が、これまた男性に性転換した元女性とラブ組み合わせ、なんてことになると、見た目はボーイズラブだけど、元は女性同士のガールズラブ(こんな言葉はあるのか?)

省エネ派のわたしは、ボーイズラブは見るだけにして、現在の女性のまま、男性を相手にしたほうが手っ取り早い。
ただ、いろんな感性、嗜好は存在して、一つ一つ認めるべきだと思った。
だが、どうしても生理的に受けつけないこともあるだろうから、それはそれで石を投げつけるのではなく、距離を持って見る、認める。
お互い、嫌なもの同士が無理やり認め合わなくても、なにも、いがみ合う必要はない。
わたしは積極的推奨者ではないものの、消極的ではあるが理解者である。

ダンスをしていると、男足を踏む男役の女性がいて、組んで踊ることもあるが、わたしは同性には拒絶反応を示す。
柔らかく線の細い女性らしさが気持ち悪い。
同じ女性でも、筋肉質で骨太、がしっとした大柄の女性にはあまり抵抗感がない。
丸く、ふわっとしていたり、そういうのが苦手。
華奢で細くて小柄の男性も苦手。
単なる肉体面の好みであるが皮秒去斑